昭和43年5月16日 朝の御理解
御理解第66節に「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も言わず、出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
「人間は勝手なものである」と、身勝手ということですよね、身勝手な人、これはやはり、え~、自己主義とかね、これは人にやっぱり嫌われます自分本意である、身勝手、ね、「人間は勝手なものである」だから、ここんところから分からしてもらわにゃいけんのですね、「いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何にも言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」教祖様はここんところを何を言おうとしておられるのであろうか、何を分かれと言うておられるのであろうか、ただ、あ~、生まれる時、死ぬる時には、ね、言うならば神乍らに生まれてき、神乍らに死んでいくんだと、その途中ばかり、いわゆる勝手な生き方をする、ね、まあその一例が、日柄が良いの日柄が悪いのと、と言うて、ね、そういうそのこれは自分に都合の良いような生き方ばかりをすること、言うておられるのであろうと思う、ね、そこんところを「人間は勝手なものじゃ」とこう言うておられるのであろうと思う、ね、同時にうんなら今申しますように、ね、勝手と、「あの人は身勝手な人じゃ」と、自分の良かごと、良か時ばかり、自分の頼む時ばっかり、言うような時に「あの人は身勝手な人じゃ」とこう言うですね、あぁ身勝手では、ここでは、ね、身勝手な生き方がいかにいけないかということを、おぉまず第一に言おうとしておられるですね、いわゆるこの自己主義なんだ、自分さえ良かれば良いという生き方なんだ、そういう生き方ではこれは人にでも嫌われます、「あの人は自己主義」「あの人は身勝手な人じゃ」と、ね、ましてはこれでは神様の機感にかなわんのは、もう当たり前、ね、そこでその、信心は、おかげを頂く、いわゆる信心は御利益を頂くということではなくて、信心は、ね、お徳を頂くものだと、信心というのはお徳を受けるもの、信心とは御利益を受けるものではない、信心とはお徳を受るものだというようなことが分かってくるとですね、これは第一身勝手ではお徳は受けられないということがすぐ分かる、ところがここに、ね、やはり誰でもおかげを願わん者はおりません、ね、頂きたいと思わん者はないから、どうしても、そのおかげ願うきに、これは言うならば身勝手信心と言うのですね、「どうぞこげんして下さい」「こがんして下さい」ね、神様の心も知らずに、ただ「ああしてくれこうしてくれ」と言うて、自分の都合の良い事ばっかり願う信心を、これは身勝手信心とまあここでは言わなければならない、ね、だから身勝手信心ではいわゆる自己主義信心ということに、なるのです、神様にはどういうご都合があるやら分からない、ね、神様の思いの中にはどういう思いがおありになるやら分からない、それを「どうぞどうぞこうして下さいああして下さい」と自分の身勝手なことばかりを言う、ね、ところが今まで例えば、日本、日本人に限らなんのでしょうけれどもまあ、信心と言うてきたのがもうほとんどこの身勝手信心が、もうそのまま信心のように思うてきたようですね、悲しい時の神頼み、こん、神頼みをすることはもう悲しい時か苦しい時か困った時でなからなければ、信心のせんもののように思うている、ね、それでは身に徳を受ける修行ということにはならない、言わばそこで、あの~思いますことはね、「信心して徳を受けて」というような言葉をいたるところに使うてございますね、み教えの中に、だから「信心して身に徳を受けよ」ということが信心だと、一つね、その初めは誰でも身勝手信心ですけれども言うなら、その身勝手信心の中からですね、一つ分からしてもらわにゃいかん、身勝手信心でもおかげ下さるですもんね、けれども、ね、それではね、いわゆるここんところに、言うておられます、「人間は勝手なものじゃ」という見方になってくるわけです、ね、どんなに知者でも徳者でも生まれる時には日柄も何にも言わんで生まれてきておりながら、ね、また死ぬる時には日柄が良いの、日柄が悪いのと言うておるわけにはいけんのである、ね、「明日は友引じゃからその明くる日死のう」なんていうわけにはいかんのである、ね、それこそいわゆる神乍らに死んでいかなければならない、その辺がちょっと可笑しいとこういうような感じがする、「人間は勝手なもんじゃ、日柄も方位も言わずに生まれてきておりながら、また今度は死ぬる時も日柄方位も言わずに、駆けっていぬる」とこう仰せられる、ね、ここにですね、人間の浅い知恵やら力やらではど~うにも出来ないということを、一つは言うておられますですね、人間の知恵やら力ではど~うにも出来ないことなのだ、ね、そこでです、ね、「途中ばかりを」とこうおっしゃる、途中ばかりを日柄を見たり方位を見たりして、そこんところを「勝手なものじゃ」とこう言うておられるのであるから、ね、信心とはこの途中のことなのである、生まれて死ぬるまでの間のことを信心なのである、いわゆる日に日に生きるが信心なのである、ね、その日に日に生きていくということを、信心になるということは、そんならどういうようなことか、ね、そこに徳の受けられる生き方があるというのでございます、ね、この途中を、身勝手な自己主義な、ね、我さえ良ければ良いといったような生き方では、もう徳が受けられないということがここには言うてある、ね、いかに神様の前ではです、赤子のような素直さ、大自然の前には、ね、人間の知恵やら力というものがもう、無いのも同じ、ね、その神様の働きの前には、私共ではいかんともする事の出来ない、言わば弱い私共でありながらです、私共がそれを右が良いの左が良いのと言うて、詮索をする、そういう思い方が第一まず捨てられなければならない、ね、いわゆる神様の前に素直になる以外にはないのである、その途中、ね、その途中、生まれてから死ぬるまでの間のその途中、ね、ここのところを信心にならなければならない、信心とは日に日に生きるが信心である、ね、その日に日に生きるという事の中に信心が、「信心して身に徳を受けて」とこうおっしゃった、ね、また次には、「神信心に、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と、良し例えば雨が降っても、風が吹いても、そこを素直に受けていくということが信心だと、ね、そこを辛抱しぬかしてもらうということが身に徳を受ける修行じゃとこう次におっしゃってあられますですね、身に徳を受ける修行というのは、ね、雨やら風やらがある、ね、生きていきよる、生きていく上にはです、ね、これが雨じゃろかこれが風じゃろかと思うようなことがある、ね、難儀が続く、泣き面にはちといったようなことがある、ね、そういうような事でもです、その事を自然の働きとして、言うならば神様の御働きとしてそれを素直に受けていくということ、ね、受けるの受けないのと例えば言うたところでです、人間の知恵ではど~うにも出来ないことを、右往左往するのである、ね、その神様の働きを素直に受けるということ、ねならそのことがどういうことになるかと言うとです、その事が、ね、身に徳を受ける修行になるのですよ、ね皆さん、信心とは、私は徳を受ける稽古だと、そこでうんなら例えば身に徳を受けていきよる人の姿、ね、身に徳を受けておる人の姿というものをです、私共が、見たり聞いたりさして頂いて、ね、なるほど久留米の初代の石橋先生が、「この世は徳の船に乗って渡れ」とおっしゃったが、本当に身に徳を受けて、もう本当に船は帆任せ風任せ、の生活というものがいかに有り難いものかということを、例えば石橋先生あたりやら、ね、甘木の初代の安武先生あたりは、ね、徳を受けるとこのようなおかげが受けられるんだという、その印を私共に見せておって下さった、ね、皆さん徳の船に乗って渡れれるおかげを頂かなければ、しかもその徳はですみてるということもなからなければ、ね、この世に残してもおける、しかもあの世にまでも持っていけるという、こんなに有り難いことはないのだけれども、私共はもう自分の目先の自分の都合の良いことだけが、おかげのような思い方をしておることをですまず一つ私は捨てなければいけないと思う、ね、御理解66節の今日頂いておるところはです、ね、ただ人間は勝手なものであるということだけを、言うておられるのではなくて、ね、勝手なものでは、勝手な生き方では、おかげが受けられないということ、ね、生まれてから死ぬるまでのその間の、そのところをです信心する者は勝手な生き方をしてはいけない、身勝手な信心ではいけない、御利益主義だけの信心ではいけない、自分さえ良かりゃという自己主義の生き方ではいけない、ね、そしてそこには、いわゆる様々な信心がありますが、ね、言うならば自分本意の信心からです、ね初めでも自分勝手な信心から入ってくるのですけれども、ね、いわゆる身勝手な信心から、いわゆる、ね、神様本意の信心になってくる、自分本意の信心じゃないのですね、神様本意の生き方、自分がこう思うたら、こうしたら神様がどう、みにっ、どう感じなさるだろうかという生き方、ね、自分の都合といったようなことは棚に上げて、神様のご都合に生きぬかせて頂こうというのが信心であり、それが日に日に生きていく信心とはそういう信心、日に日に生きるということだけじゃない、日に日に生きるが信心、ね、日に日に生きるということが信心ということは、そういう、ね、神様本意の生き方をすることが、信心なのだ、これで行くならば神様の御信用も付く、言わばお徳も受けられるということ、なら身に徳を受けるとどういうことになるかと言うと、天地が自由になるというようなおかげが受けられる、ね、大変なことなんだ、ね、「氏子が神様任せならば」とおっしゃる、氏子が神様任せになるということは、神様の前にいかに従順に素直になるかということなのだ、神様任せということは、ね、自然に対する働きに素直になるということ、ね、「氏子が神様任せなら」ね、「神様が氏子任せになる」とも仰せられますです、ね、神様が私共任せになって下さる、もうここには自分がああしようこうしようと勝手な事ばっかり言うておるのじゃなくて、もう自分の思う以上の、働きやらおかげになってくるんだ、それこそ夢にも思わなかったようなおかげにすら、展開してくるのだ、進展してくるのだ、ここにいたって初めて、信心ちゃぁ有り難いんだなという、信心にゃ有り難いもんだということが分かってくる、目先目先のおかげを頂いて、ね、そん時は有り難いようにあるけれども、それが何時の間にか消えていく、そしてそのおかげを返って、反対に逆裏目するようなことにすらなりかねない、そういうおかげだけは駄目だと言うか、ならそこで私共はやっぱり痛けりゃ痛い痒けりゃ痒いで、ね、やはり治しても頂きたい、こうもして頂きたいと思うから、そこんところをお取り次ぎということになってくるのです、お取り次ぎを頂くという事になってくるのです、ね、例えて言うならば、役場なら役場になんか書類を出さにゃならんでしょ、すと書き方が間違っておると、却下されるのでしょ、「これはあんた間違うとるったい」「これはここんところはこげやん書き直してこにゃいかん」「してあんたここ、ここ書かんで良かとこば書いとるじゃんの、ここは、そこはこっちで書くとじゃ、そりゃ書かんで良かとこば書いて、書かにゃんとこはいっちょん書いとらんじゃないの」という風にその、修正、訂正して下さる、ね、それでいけどいかんなら「大商人に持って行ってから書いてもらってこんの」ということになってくる、ね、私はお取り次ぎというのは、そういう私は役前のところであると思うですね、そこでお取り次ぎを願い、お取り次ぎを頂くということが第一になってくるとですよ、ね、私共はやっぱり身勝手な事を思い、こうありたいこうしたい、こうなったらさぞ良かろうと思う、だからその事をなら一応はお取り次ぎを願うというのである、ね、だからお取り次ぎを頂くまでに、やはり色々研究もしなければならない、(?)しなければならんけど始めの間は分かりません、だから「どうぞ病気が治りますように」と言うてお願いにくる、ね、そこで取り次ぎ者はそのもう、初めは言うても分からんからもう黙って書いてやる、例えて言うならば、ね、始めて参ってきた氏子が「何にも分かりません、信心の事は何にも分かりません、勿論あなたの心など分かりません」ね、ですからね、「私が修行いたします、私が改まりますからどうぞおかげをやって下さい」といったような生き方のは、もう黙っていや向こうでもう書いてもろうて出してもらうようなもんです、ですからそれが向こうへ通じる、ね、けれどもそれに何時まででもそうであってはならんから、段々おかげ頂くようになってくると、言うて聞かせられる、ね、「ここが分からにゃいかん」「自分の胸に手を当てて考えてごらん、それじゃどうも可笑しいじゃないの」と言うて、いわゆる我が心から練り出すことを教えて頂く、信心はね、頼み願うことだけじゃいかん、我が心からも練り出さにゃいかん、ということになってくる、その辺から信心が段々おもしろうなってくる、ね、有り難うなってくる、ほっ、それを悟という、練り出しよる、「はぁこれじゃおかげ頂けんはずだ」ということが分かってくる、ね、そしてそこが改められていくところに、今までどうにも出来なかった問題がスッススッスーと通っていくようなもんだ、だからお取り次ぎというのはそんなに大事な事、ただ心の中でお願いしよりますじゃいかんということが分かるですね。
お互い、ね、皆身勝手なところから信心に入ってまいります、ね、だからその身勝手なところから、ね、一つ、ね、神様の前に本気で素直にならせて頂こうというあり方にならしてもろうて、ね、素直になっていく本気で素直にならして頂くという信心、いわゆる神様任せになれれる信心、そういう信心を私は神様本意の信心であるとこう思う、ね、ですからその神様本意の信心を続けて行きよると、今度は神様が、今度は氏子本意になって下さる、ね、もう大変なことなんだ、それを言葉に表現すると、天地が自由になって下さるのである、私共のために、ね。
私はね、この66節には、そういう深い意味がその内容には込められておるとこう思うのです、これをただ頂きますとね、なんっ、ただあの何でもないみ教えようになるけれども、そんなに大事なこと、お道の信心をさして頂く上においては、ね、「人間は勝手なものである、いかなる知者も徳者も、生まれる時には、日柄も言わず、日柄も何にも言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何にも言わずに駆けっていぬる」という、そういうあり方がね、ね、いかにつまらん生き方であるかということを教えておられるのである、そこでその「途中ばかり」とおっしゃるその途中の中のことを信心というのである、ね、その途中も私共が、ね、天地の親神様の前に、ね、一未熟としての生き方、「人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心」とおっしゃるように、道理に合う生き方、道理に合うところの生活のあり方にならせて頂くということ、しかも素直に、そこに私は、ね、身勝手な生き方から、ね、道理に合うた生き方が出来るようになる、そこには、ここにはそうは言うておられませんけれども、「信心して身に徳を受け」とこうおっしゃる、ね、いわゆる身に徳を受けていく生き方を教祖は示しておられる、教えておられるのである、ね、その身に徳を受けていく中には、やはり雨もありゃぁ風もあるけれども、それを辛抱していくということ、それを辛抱して受けていくということが、身に徳を受ける修行じゃとも教えておられる、ね、素直になる、ね、本当に雨だ風だという時でもです、そこんところを元気を出して、へこたれずに、ね、辛抱しぬかして頂く元気な心をいよいよ求めておられる。
日々御取り次ぎを頂いて、そうした自分本意の信心から、神様の心を分からしてもろうて、神様の心任せに生きていくという生き方、いわゆる神様本意での生き方を、いよいよ身に付けさせて頂いて、ね、もう実に、もうそれこそ高い所から低い所へ水が流れるようにスムーズにあるんです、どういう事があってもそれをね、素直に素直に受けていくという信心なんです、それを言わば私共は途中ばかりをかっ、というのは、ね、それを素直に受けようとしなずっ、せずに、さあ右が良いの左が良いのと言うて可笑しな話しである、そして死ぬる時にはまた日柄も方位も言わずに駆けっていならなければらならん、私達なのだから、ね、その途中の所をですいよいよ大事にして、そこには身に徳が受けられる道を教祖は教えておられる、私共の先覚、先輩の先生方はそういう、身に徳を受ける、て行く、信心を私共に教えておられる、ね、そこを私共は神習わして頂くのである、そして身に徳を受けていく生き方というのは、私共がそれこそ夢にも思わなかったようなおかげに進展してくる、そういうおかげに道は必ず広がってくる、そういう「この世は徳の船に乗って渡れ」とおっしゃるのはそういうこと、ね、まず何と言うても、身に徳を受ける修行を本気でさしてもらうということの中に、ね、せっかくならば楽しさやら、ね、有り難さやら、または面白さをです、その信心の途中の中に味合わせて頂く、分からしてもろうて、ね、神様本意の生活、いわゆるここで言われるところの、「人間は勝手なものじゃ」ではなくて、ね、「あの氏子は素直じゃ」ね、と言われるような生き方、ね、我がええごつばっかり言う、身勝手な事ばかりする、といったような生き方ではなくて、ね、身勝手信心から、いわゆる神様本意の信心に一つ早くならせて頂くところの、ね、信心を願わにゃいかん、そこから身に徳を受ける修行が頂ける、身に徳をしゅっ、身に徳を受けて、この世を徳の船に乗って渡らしてもらえれるおかげを頂かにゃならん、しかもそのおかげというのは、あの世にも持っていけれるおかげ、この世にも残しておけれるおかげ、おかげの内容が大変違ってくる、ね、そういうおかげを一つ頂きたいもんだと思うですね。 どうぞ。
皆さん今の、御理解のところをもう一遍よくよくあの~、読んでみて下さい、まあ私も今日のこの御理解をこういう風に頂いたのは初めてです、これはもう読み過ごすところです、もうスッスーっとここは分からないところです、けれどもなるほどあの、「勝手なものじゃ」とおっしゃるところですね、本当になら「勝手であってはならない」ということを教祖はいつも教えておられるわけなんです、ここんところを頂かなならんですね。
どうぞ。